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 結果、フォン・ヴェルダー将軍には新年を迎えても仏軍が動かず却って守勢に入ったようにも見え、またリオン~ブザンソン鉄道は軍専用となっているとの情報があったもののブルバキ軍がブザンソンに入ったとの確実な情報もなく、「仏軍が北上中」との情報全ては住民たちの噂話でしかありませんでした

 ヴェルダー将軍はこれら情報をまとめてベルサイユに送り、大本営はこの情報とロアール上流における仏軍北上の動き、そしてバンドームに対するシャンジー将軍率いる第2ロアール軍の攻勢から、「陥落寸前となっているパリを救援するため、両ロアール軍は近日中に共同して一大作戦(北上してパリ包囲軍と対決する)に乗り出すに違いない」と結論してしまうのでした

 このことからベルサイユ大本営は独第二軍をル・マンへ向かわせ、パリ包囲網から第2軍団を外してモンタルジ(ジアンの北35.3キロ)へ向かわせるという決断を行い、当時ニュイ(=シュル=アルマンソン

シャティヨン=シュル=セーヌの南西30.5キロにあり、当時は重要な鉄道分岐点で「ニュイの戦い」のニュイ=サン=ジョルジュとの混同注意です)とモンバール(同南南西31.6キロ)を拠点にコート=ドール山地で行動中(後述)の第7軍団とツァストロウ将軍には1月2日、暗号電信で「エデュアルド・フリードリヒ・カール・フォン・フランセキー歩兵大将の第2軍団と共同してパリ包囲軍南方に対する援護として今一度オーセールに向かう」よう命令が下ったのでした

 年が明けてもスイス・ベルンの情報筋からは盛んに仏の大兵力北上の報告が届き、更には「アルジェリアから10,000名の将兵が到着している」との情報も飛び込みますが、ヴェルダー将軍は対する敵が自身掌握する兵力よりかなり大きなものであることを疑わなかったものの、1月3日に至っても尚ブルバキ将軍とその配下の動向が判明せず、既述通り一旦ブズールからソーヌの西岸へ引き返そうと考えます

その前に将軍はドゥー河畔の様子を確認するべく4日、ブズール南方に向けて兵力を動かしたのでした

ブズール☆ 独「南軍」の誕生 この5日に発生した「ブズール付近の戦闘」により、遂にヴェルダー将軍はブルバキ・第1ロアール軍の存在を確認し、直ちに戦闘詳報と捕虜等の尋問結果を電信でベルサイユへ送ります

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 ベルサイユではヴェルダー軍団に驚くほど近付いていたブルバキ軍の動向を見据え、この南方からの脅威に対するため急ぎ対応策を練りました

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 その結果、翌6日に独大本営は第2軍団と第7軍団に対して更なる電信命令を発し、それは「両軍団はモンタルジ並びにオーセールの現在地よりニュイ(=シュル=アルマンソン)~シャティヨン=シュル=セーヌの線上に行軍・集合せよ」との内容で、同時に当時(シャルルヴィル=)メジエールからパリ包囲網へ向かうべくミトリー(=モリー

パリ北東24.5キロ)へ鉄道輸送中だった第14師団(既に歩兵3個大隊がミトリーに到着済みでしたが)も方向転換させ、シャティヨン=シュル=セーヌで原軍団(第7軍団)に復帰するよう命じたのです

 そしてベルサイユ大本営とヴィルヘルム1世国王は、ベルフォールからモンタルジに至る長大な戦線で繰り広げられる「多種多様な戦闘」を俯瞰し効率よく統括指揮を行わせるため、仏南東部で戦う諸軍団をして「独南軍」を組織し、その総司令官には仏北軍と戦い始めていた元第1軍団長フォン・マントイフェル騎兵大将を任じたのです

「ドイツ南軍編成に関するプロシア国王の勅令 1871年1月11日『プロシア王国陸軍省通達』朕思う、仏南部にてフォン・ヴェルダー歩兵大将率いる軍団の他、第2、第7両軍団もまた一時仏南部に転進する必要を感じ、これら諸軍団を統合し南軍と称すべきとする

また、第一軍司令官である男爵フォン・マントイフェル騎兵大将は現在、元より将軍麾下である第7軍団の許にあること、この南軍中最高級士官且つ古参士官でもあることなので同軍司令官に任じることを陸軍省に通達す